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『ファインディング・ネバーランド』連載コラム|【第1回】 ジェームズ・バリの生涯 大人にならなかった文豪ーかくて、名作は生まれたー(文=福田剛士)
2023年2月2日(木)
大人にならなかった文豪
―かくて、名作は生まれた―
ジェームズ・マシュー・バリ(1860-1937)
ジェームズ・マシュー・バリ。その名をロンドンの街角で訊ねても、首を振られるかもしれない。だけど、こう告げたら?「ピーターパンの生みの親、バリって知ってる?」
きっと笑顔が返ってきます。
一八六〇年、バリはスコットランドの高地、ハイランドの村に生まれた。大家族ゆえ、裕福ではなかった。だが機織り職の父は、子供の教育に骨身を惜しまなかった。また母も本好きで、バリはその薫陶を受けて育った。とはいえ貧しくて、本を買うのは、ままならぬ子供時代。バリが取った行動は、自分で物語を書くことだった。こうして屋根裏の子供部屋にこもって文字を綴る日々が始まったのである。その頃、ペンで身を立てたいと思った。そして、ずっと子供のままでいて、空を飛びつづけていたい。そんな幻想も育んでいた。
長じてエディンバラ大学を卒業後、バリは正業に就かず、名もなき作家の道を選んだ。平凡な大人にならないために、それが最善と感じたのだろう。むろんいばらの道だった。片っ端から記事を書き、新聞社に送り付ける日々を過ごした。採用されたりされなかったり、様々な論説を書き散らした。この経験が、文才を開花させた。少しずつだが、収入につながった。
だが、やはり地方で埋もれていては、道は開かれぬ。思いつめたバリは、当てもないまま、ロンドン行きの汽車に飛び乗った。心に空飛ぶ想いを秘めて──。
ウサギ小屋のような部屋を借り、食を切りつめ、無我夢中で記事を書いた。大手の新聞社に採用されるようになるも、匿名ライターのままだった。だが、ロンドンに来て三年。ようやくバリの名が世間の知るところとなる。記事が本として上梓されたのだ。
快進撃が始まった。小説が受ける一方で、戯曲もヒットを飛ばした。生活が安定すると、女優との結婚に踏み切る。とある名所のそばに居を構えた。そう、ケンジントン公園だ。大きな池には、白鳥をはじめ色々な水鳥が棲む。木々からリスが駆けおり、犬たちが転げまわる。ここには、海賊もいて、妖精もささやきかけてきた。空を飛ぶための理想郷に思えた。バリが足繁く通ったのは、言わずもがな。ここで、運命の出会いあり。デイヴィス家の男の子たちだ。バリの幻想は、たちまち子供らを魅了させた。
ケンジントン公園の北にあるバリの自宅。 ベイズウォーター・ロード100番地。
ちなみにピーターパンは、いかにして生まれたか?はじめに『小さな白い鳥』という物語に赤ん坊として登場する。この赤ちゃんピーターの暮らしたのが、ケンジントン公園だった。面倒は小鳥や妖精がみた由。
一方。現実では、デイヴィス家の子たちと交友が深まってゆく。ワニ退治や海賊ごっこだの、バリが望んでいたものばかり。もはや有名作家で、生活の心配もない。子に恵まれなかった分を、取り戻すように夢中で遊び、空想の世界を飛びまわった。まさに至福の瞬間といえた。このとき、バリの才能は最高のきらめきを放った。
こうして誕生したのが、不朽の名作『ピーターパン』であった。海賊に妖精、人魚にネイティブ・アメリカン、さらにネバーランドという永遠の国は、どうだ。それこそバリにしか描けぬ未知の領域で、当時の演劇界に衝撃が走った。
以来、『ピーターパン』は百年経っても世界中で愛されている。
フック船長役のバリと、ピーターパン役のマイケル・デイヴィスが、
「ピーターパンごっこ」をして遊ぶ様子。
バリが『ピーターパン』の権利を譲渡した
グレート・オーモンド・ストリート小児病院の入口にある
ピーターパンとティンカーベルの像。
グレート・オーモンド・ストリート小児病院の救急車には、
ピーターパンのイラストがペイントされている。
ただ、私生活では、離婚を余儀なくされ幸福とは言い切れなかった。だが、人々に愛された事実は揺るがない。晩年には大学の学長に推され、准男爵に叙勲されたほどだ。
最後に優しい置き土産を残した。『ピーターパン』の印税など一切を、子供病院に寄付したことだ。
いくつになっても、空を飛ぶことをやめず、王女さまの誕生日には、楽しい思い出をさしあげた。
一九三七年、ネバーランドに飛び去ったまま帰らぬ人となる。
享年七七才。
第2回:ジェームズ・バリの生きた時代 小さな大人って?-子供を子供と思わぬ社会- は2/7公開予定。
【公演概要】
ミュージカル『ファインディング・ネバーランド』